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[August 2007] エントリー一覧

August 29, 2007

コラム:セルフ・クリエート Vol.4

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 理想は嘘つきだ。だって、理想は理想であって、「まだ起きてもいないこと」なのだから。理想が素晴らしいのは、「現実」になった時。つまり、嘘が本当になった時。


 良い先生というのは、生徒の悪いところを的確に指摘する。上手でもないのに、上手いとは決して言わない。現実を見せてくれる。ものすごく下手かもしれない。有り得ないくらいかもしれない。だけど、現実を見せられた生徒は、上手くなるために練習する。そうして、練習を重ねて、やがては理想に近づいていくのだ。私たちは、現実を知るからこそ、理想に近づける。現実とは、ありのままを知ること。等身大の自分を知ることで、何が自分に足りないのか気づくのだ。

 
 現実が冷たいのは、理想とのギャップが大きいから。だけど、本当のことを知りたい人にとっては、現実って、とても温かい。なぜなら、現実を見ることによって、ギャップがなくなるから。つまり、苦悩がなくなるから。現実という冷たさを知り、一方で、そこから現実の素晴らしさを知っていく。それが、子供が「大人になる」ということだ。


 教育や躾。子供はそれらを材料に、自分で自分を創造していかなくてはならない。セルフ・クリエートである! そこから人間らしさが生まれ、そこから人類の宝物が生まれる。


 創造することに疲れて、教育や躾に疲れてしまった時、人間は、泣いたり逃避したりする。ゲームに没頭してみたり、遠くまで自転車を飛ばしてみたり、狂ったようにバッティングセンターに通い詰めたり……。子供には、逃避してきたら、必ず「現実」に帰って来ることも教えることが大切である。


 逃げるのはいいことだ。逃げるのも勇気。だけど、そこから必ず帰って来ることを教えなければならない。何? 子供がなかなか帰って来ない? それは、もしかしたら、マイホームが、帰って来たくない環境だからかもしれない。(おわり)

※写真は府中公園で従姉妹と母と。ちなみに一番左が私。
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投稿者 きつね子たぬき : 02:35 PM | コメント (0)

August 22, 2007

コラム:セルフ・クリエート Vol.3

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 教育は学校が。躾は親が。学校と親の役割はわかった。では、子供の役割って、何だろう?  宮崎駿の「千と千尋の神隠し」で、千尋がハクにおにぎりをもらい、泣き出してしまうシーンがあった。今まで我慢していたものが、一気に溢れる瞬間だ。あの時の千尋の気持ちを、みなさんは理解できただろうか。人間は、優しくされると、泣きたくなる。

 ある日突然、千尋は、見知らぬ不思議な世界に来てしまった。知り合いなどいない。変な人や生き物がたくさんいる。なかなか受け入れてもらえない。そうした孤独の中、何だかわからないけれども、働かなければならなくなってしまった。たくさんの人に頭を下げる。怒られる。自分の要領の悪さを自覚する……。

  「ここでは、今までの私は、通用しない」のだ。

 社会は冷たい。理由など聞いてもらえない。突然の環境の変化にも、容赦はしない。子供は、「現実を知る」必要がある。そして、その現実に対応していくために、「自分を自分自身の力で鍛えていく」訓練をする必要がある。現実を知ることは、子供の権利の一つでもあり、義務の一つでもあるように思う。本当のこと、つまり、社会は冷たいとこうことを、教えてあげないのは、実は、大切な権利を勝手に取り上げているようなもの。子供には知る権利がある。知った上で、それをどう受け止め、どう行動するか判断するのは、本人の自由。私たちは、相手の心までは奪えない。それなのに、大人は、何でも悪い方に物事を考えて、その結果、心配性になって、本来知るべきことさえ隠してしまう。隠してしまうことで、知ることさえできなくして、「何かを感じたい心」まで、操作しようと試みる。余計なお世話だ。


 言わせてもらおう。現実とは冷たい。だけど、一方で、とても救われる。現実はとても理性的で、客観的で、嘘をつかない。現実を見せられた私たちは、自分が抱いていた理想とのギャップを目の当たりにして、ショックを受ける。倒れるかもしれない。もしくは、鬱状態になってしまうかもしれない。人間は、現実と理想との間に、大きなギャップが生じると、苦悩する。しかし、その現実とは、苦悩する前から、もともとそこにあったのだ。何を今さら、パニックになる必要があろう?(続く)

※写真は飼い猫と共に、なぜか意気込んだ表情で写真に写る作者。よく見ると、微妙~に「グット!」とやっている。
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投稿者 きつね子たぬき : 11:35 AM | コメント (0)

August 15, 2007

コラム:セルフ・クリエート vol.2

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 学校は教育現場であり、躾現場ではない。この違いを知らない人は、意外と多い。学校とは、基本的に勉強をするところ。学問をするところなのである。だから本来、教育と躾とは別物で、教育は学校の役目だけれど、躾は親の役目だという認識が、なければおかしいのだ。学校で躾のような指導がなされるのは、学問をしに来ているのが、「子供」という、まだまだ未熟な年頃だから、まるで躾をするように、叱らなければいけない時も生じるからだ。例えば、遅刻をする、いじめをする、物を壊す、お喋りが多いとか。でも、これって、視点を変えればこういうこと。つまり、遅刻をする(=授業を始められない)、いじめをする(=基本的人権を阻害する)、物を壊す(=器物損害)、お喋りが多い(=営業、いや、授業妨害)。そう。学問をするにあたって、すごく差し障る。だから叱る。ただ、それだけのことなのだ。

 それを、最近の大人は、学校は、躾もしてくれるところだと勘違いして、自分の子供が何かをすれば、それは、「してくれるはずの躾をし損ねた」学校が悪く、「してくれるはず」だから、職務怠慢で、すなわち、自分たちに謝るべきだ、ということなのである。


 甘いのだと思う。自分の腹の中から出てきた人間を、他人に任せるなんて。もっと言えば、自分たちのしたことで、(想像はお任せする)勝手に産み出して、やれハイハイだ、やれ喋っただと、かわいがるだけかわいがって、(楽しむだけ楽しんで)さあ、これから、生意気なこともいたずらもする、面倒くさい年頃になりました、という時になったら、ここから先は、「学校」の仕事よと、いわば責任放棄してしまうのだから、我がままというか、物分りが悪いというか……。躾までを学校に任せてしまった大人たちは、一体、家で何を教えているのだろう?(続く)

※写真は作者7歳の頃。(赤帽にエメラルドグリーンの服を着ているのがそう)遠足でどこかに行って、テンションが上がった勢いで、他のクラスの人たちと一緒に転がっている。
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投稿者 きつね子たぬき : 01:41 PM | コメント (0)

August 08, 2007

コラム:セルフ・クリエート vol.1

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 「十五、十六、十七と、私の人生暗かった~」  と、藤圭子は歌った。張りのある声で、ビブラートをきかせて、睫ぎりぎりの前髪で。藤圭子は暗かったというが、では、私はどうであっただろう? 十五、十六、十七歳といえば、ちょうど高校生の頃。一つだけ、はっきりしていることといえば、それは、それほど明るくはなかったということ。皮肉のように聞こえるかもしれないけれど、実際のところ、明るく元気な、いわゆる「健全な」高校生なんて、そういなかったと思うのだ。


 大人たちは、ティーンエージャーに、輝かしい日々を、めいっぱい生きることを、執拗に求める。だけど現実は、なかなかそうもいかないもの。思い出して欲しい。高校生の頃の自分は、どうであったかを。身体がだるくて、眠くて、勉強も面白くなくて、その上、爽やかな恋愛なんか、全体の一割くらいしか、できていなかったんじゃないかな。「明るく元気な、いわゆる『健全な』高校生」なんて、演じるのも難しかったはず。マンネリズムの毎日の中に、明るさなんてない。学校という小さなシンジケートの中で、暗くて窮屈な気持ちで生きていた人は、少なくないはず。


 そもそも、暗く窮屈な「独房」に、ティーンエージャーを送り込んでいるのは、紛れもない。大人である。ちょうど今、袋小路に追い込まれている安倍政権だけど、ようやく、教育システムにメスを入れ始めてくれた。メスを入れた途端に、文科省宛に手紙が送られたり、先日の参院選で、安倍政権自体が転がり始めてしまったけれど、教育システムの解体を怖がったり、面倒くさがっているうちは、渋谷は「だるい若者」の溜まり場のままだし、だるければ、勉強だってするはずないし、健やかに、「大人」へと成長できるわけがない。そのことを、ようやく気づき始めてくれたのかな。とはいえ、相変わらずのスローペース。責任の取り方を知らない大人たちが、責任重大な「教育」というものに、手を伸ばしたくないのは、当然と言えば、当然のことなのだけれど。(続く)

※写真は筆者子供の頃。歯が抜けるらしく姉と一緒に口のなかを覗き込む。
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投稿者 きつね子たぬき : 11:35 AM | コメント (0)